宍野 史生
日本一の山と称される富士山に対する畏敬の念と崇拝の念は誠に古くからありました。神々しいまでの秀麗な姿は神霊の宿る霊峰であり、一方幾度かの噴火を繰り返した荒々しい姿から、火の神の猛威が与える畏怖の山でありました。そして、人々の恐れの気持ちは、やがて山に祈ることで平安を招き、人間の力では到底抗しきれない大自然の驚異を神として祀る信仰が生れました。
このような富士山の歴史は、日本武尊が東征の折に現在の北口を開かれたとされる日本書紀、古事記の時代から、聖徳太子、役行者による登山・開山などの神話伝承が伝えられておりますが、現在に富士信仰の伝統を存続させているのは、藤原(長谷川)角行(1541~1646)が永禄元年(1558)より不撓不屈の修行のもとに北口登山道を開かれ、元亀3年(1572)6月3日、霊峰頂上に立って興された富士道であります。
やがて、藤原角行を開祖に、富士山そのものを霊場とする富士道は確立され、富士山の厳しい自然の中を登山修行し、天地平安・萬人安福を祈る富士講が組織されました。
富士講は、江戸時代中期に「江戸八百八町に、八百八講あり、講中八萬人」といわれるほど隆盛し、伊勢詣り、金毘羅詣りとともに、「三大詣り」として江戸の町民に深く根付きました。また、富士山に登ることができない女性やお年寄りのために、江戸の諸所に富士山をかたどった「富士塚」が作られるなど、当時の富士講の習俗は江戸町民の生活風俗に大きな影響をもたらしました。
このことは、羽黒山や大峰山などの各地の山岳信仰が修験者による修行の場であったのに比べ、富士講は一般民衆が伝統的信仰形態を取りながら山頂を目指したという特異な現象であります。
民衆の登拝を支えたものは、厚い信仰心と豊富な経験に裏付けられた富士講先達(せんだつ)の存在であり、又ふもとでは御神前で大神楽を奏すなど信仰の指導者であり、宿泊所の運営や強力(ごうりき・荷物の運搬)の手配など、いわばベースキャンプとして山を目指す講の人々をサポートした御師(おし)の存在でありました。
また、先達が伝えた「山で一番怖いのは雷」「弁当忘れても雨具は忘れるな」「息は吸うよりまず吐き出せ」などの言葉は、知識としてではなく、経験に裏付けられた知恵として、十分現在に通じるものであります。
現在も登山者の多くは金剛杖を頼りに、苦しい登山の中で、心から自然に湧き出る言葉として「六根清浄」の掛け声とともに一歩ずつ山頂を目指しております。このような姿は諸外国にも例がありません。
文化庁や自治体においても、富士道・富士講の古文書などの記録や、祭具・建築物等を歴史的遺産として長く後世に伝えるべく、文化財の指定など必要な措置を講じております。
中でも、富士講の歴史上とりわけ意味ある史跡として、八合目烏帽子岩富士山小頂上天拝宮(元祖室)は存在します。日本武尊が登拝の折に烏帽子を置き休息したと伝えられる聖跡であり、富士道(明治15年、勅裁の神道教派として特立し、神道扶桑教に改称)の中興元祖伊藤食行身禄(ジキギョウミロク・1671=寛文11~享保18=1733)が、享保18年6月13日~7月13日の31日間を、一日一椀の水だけの断食修行により六十三歳で即身入定された霊跡で、その御遺体の石棺の上に小祠を建て、身禄堂・元祖室と称されてきました。そこに、富士山頂上金明水脇にあった富士山天拝所をここに移し合せ、富士山天拝宮とし、元祖食行身禄師入定より二百八十余年の今日まで、富士信仰に欠くことのできない重要な霊地として、守り伝えられています。富士山五合目以上に存在する社殿は、頂上久須志神社、浅間大社奥宮と、富士山天拝宮の三ヶ所のみであります。
しかし、先に申し上げましたように、富士道・富士講の本来の姿は、歴史的な資料としてのみではなく、民衆の中に活きる姿であります。
西欧の登山は、いわばスポーツとしての自然の克服であり、頂上に立つことが目的でありますが、富士講の精神は、厳しい富士の自然と一体化し、あるがままの環境を受け入れて「生かされている自己を再確認する」ことが目的であります。このことは、最近提唱されている「自然との共生」という理念に近いものであると認識しております。
私たちは、富士信仰として培われた長い歴史と、山全体を霊場として一木一草を大切に守り、山の厳しい自然を畏敬の念を持って祈った先人の思いを後世に伝え、四百六十年以上脈々と引き継がれてきた先人・先達の想いを今一度思い起こし、尚一層の精進努力を重ねて参る所存でございます。(「富士山」・「富士講」などの表記は本来「冨」の使用が伝統ですが、本文にては「富」で表記しました。)